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2011年10月27日

勝手なオートバイ世界遺産⑤

1983(昭和58)年、オートバイロードレース世界選手権(ワールドGP)において、日本のオートバイ4メーカーは、レースの世界でも他国メーカーを圧倒的地位で凌いでいた。特に、「ホンダ対ヤマハ」の戦いは熾烈を極め、ホンダワークスマシン・NS500を駆る若干21歳のフレディー・スペンサーとヤマハYZR500を駆る王者ケニー・ロバーツ。その壮絶なトップ争いは今も語り継がれている。

それは、年間12戦のうち互角の6勝づつ優勝、フレディーが僅差のポイントでチャンピョンを獲った。この戦いはそのまま「HY戦争」そのものであり、日本国内における「ホンダVSヤマハの販売シェアー競争」のそれを反映しているかのようだった。                 fsfb1             【F・スペンサーのライディングフォームに憧れた。マシンはNSR500】

この頃、日本の2輪車市場は車検の要らない「軽2輪車」、いわゆる250ccが各社共に販売を伸ばしていた。なかでも1980年にセンセーショナルなデビューを果し、圧倒的な人気を誇ったのは「ヤマハ・RZ250」である。当時のバイク仲間は、その走りに心を奪われていった。717px-yamaha_rz250_2

【250ccでも35馬力・400並のパワーを誇ったRZ250】

トップを行くヤマハ・RZ250を、追い落とすかのように登場した「スズキRG250γ」も鮮烈だった。かつて無い「フル・カウリング」や「セパレートハンドル」は、市販車250では史上初の標準仕様で、まるでサーキットからそのまま公道へ走ってきたようなファルムに驚きで見つめた。          134【2サイクル2気筒はRG250γもRZも同様】

ワールドGPも、2輪市場も流れは「2サイクルエンジン」が主流になったのもこの頃からである。1984年、カワサキは「KR250」を登場させる。    kr250_02【カワサキ KR250】

ホンダは、メンツにかけ「4サイクルエンジン」にこだわり、ハイパワーエンジンの「VT250F」を登場させ、ライバル3社の2サイクルエンジン勢に孤軍奮闘した。 800px-honda_vt250f_fc_mc08model_1982    

 

ホンダVT250F

しかし、人気と販売成果は思うに任せない。トップ・ブランドとして、市場シェアー奪還を狙い、2サイクル3気筒エンジンを搭載した「MVX250」を発売。小生も、それまでの愛車「ホンダCB250RS」から、ライダーとしての名誉回復をネラって「MVX250」へ乗換えた。

ハイパワーながら、エンジンから異様な作動音とマフラーからしずくのように垂れるオイル、さらに後方を走る友人達に飛び散る排気オイル。これで服は汚れへルメットも“ほくろ顔”になったりした。当時のホンダでは、高性能な2サイクルエンジンには、試行錯誤の初歩的段階だったようだ。 773px-honda_mvx250f                            【VT250MVX250の2台はスタイルに共通点が多い】

この「MVX250」が手元に届き、普段着のまま(それも半袖)テストラン。この時、小生は大転倒を起こしてしまう。それまでのオートバイはタイヤサイズは19インチが主流で、カーブではフロントタイヤに荷重をかけ「ハングオン・スタイル」で駆っていた。そのクセは「MVX250」の履く16インチタイヤには向かない。“見た方向へ曲る”それだった。

それ以来、初めて乗るオートバイは“特性をカラダでつかむ”まで、過激な走りをこらえた。自らの不肖をマシンのせいにすることが今も大嫌いだ。どんなバイクでも乗りこなす、それが“オートバイ乗り”と云うもの。1980年代は多くのオートバイが次々と発売され、まさにニューモデルオンパレードであった。好きなオートバイが仕事にできる幸福感の絶頂期だった。198220harley20davidson20fxb201340

【H-D FXB・スタージス】

ハーレーダビッドソンモーターカンパニー(HDMC)は、1980年企業買収された「AMF」から独立する。自主独立への道は苦難の連続だったようだ。しかし、成功と希望へのステップを着実に進み現代の礎となったのは、懸命な経営努力とオートバイの品質改善があったからである。

1982年モデル「FXB・スタージス」の人気と好調な販売は、企業再生を図るハーレー社にとって大きなパワーになっていった。そして、1984年には信頼性の高い「エボリューションエンジン」が誕生する。・・・次回、「勝手なオートバイ世界遺産⑥」へ続く!

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