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2012年3月10日
勝手なオートバイ世界遺産⑥
1987(昭和62)年の春。かつてないスーパースポーツバイク・ホンダ「VFR750R」が発売された。レーサーマシン・スタイルをそのまま市販車としていることから「レーサーレプリカ」と呼ばれる。例えばチタン製コンロットの導入、サーキットのピット作業に見る、スピィーディなタイヤ交換に有効な後輪の片持ちスイングアームなど、それまでのオートバイとはデザインや機能が一線を画していた。このマシンは、ホンダの製造型式記号を『RC30』。そう呼び合う方が多かった。発売当時148万円の販売価格は、国内2輪車の中にあってもっとも高額なもの。そして応募、抽選による限定販売がとられた。 【RC30の魅力は究極に研ぎ澄まされた完成度だ】
小生にとってもツーリングはもちろん、筑波サーキットや富士スピードウェイにおいて、このポテンシャルを堪能した。10年間愛用、性能共に信頼性も高くライダーとして思い出深い「HONDA・VFR750R」である。【ヤマハTZR250】
世界モーターサイクルグランプリにおける日本4メーカーの熾烈なレースシーンは、そのまま市販車へも影響してエンジン性能や車体に至り、市販車としてのパワーを極限まで向上させていた。街や峠道には憧れの世界のトップライダーのスタイルを真似るユーザーも多かった。当時(1989年)の国内2輪車出荷台数は、現在の40万台を遥かに超える180万台。今に見る約20年間で、5分の1のオートバイマーケットになってしまった。この凋落の原因は一体何だったのか?業界を挙げて苦悩が始まったのもそれからである。【スズキRG500γ】
「2ストロークエンジン・2サイクル」は、排ガス対応により現在生産されていない。レースシーンにおいてはこの「2サイクルエンジン」の方が有効であり、ホンダは技術の威信をかけて「4サイクルエンジン」で挑んだが勝てなかった。そして登場したのが、最強の2サイクルエンジンを搭載した「ホンダ・NSR250」である。このNSR250が登場するまでも「NS250F」や「MVX250」を出して来たが失敗作で、2サイクルではお家芸のヤマハやスズキに大きく水を開けられた。3度目の挑戦で得たNO-1の座だった。【ホンダNSR250】
この同じ頃、1989年「ハーレーダビッドソンジャパン株式会社」が、アメリカ本社の直接資本の子会社として東京都港区に設立される。それまでは、輸入代理店を経由して日本のオートバイ店へ卸していたが、このハーレーダビッドソンモーターサイクルカンパニー(HDMC)の子会社により、メーカーによる日本での販売戦略が始まった。また、それまでの複数メーカーブランドを同店舗で販売する「併売」から、単一メーカーの「専売店」政策がスタート。全国の「ハーレーダビッドソン〇〇」との店舗名がそれである。次号⑦へ続く。【1990モデル・FLSTFファットボーイ】